昭和46年03月28日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 神徳を受ければ心配はない。心配のない生活。これが人間の幸福の最高のものだろうと、こう思いますね。心配のない生活。第一食べる事に心配がない。着る事に心配がない。住まう事にもう全ての事の上に、心配がないと言う事になったら、人間の是が最高の幸福であろうとこう思います。神徳を受ければ心配がない。昨日熊本の富永先生が、月のお礼に出て見えられました。
 色々とお届けをされて、私はここで一時間あまりお話しを聞いて頂いて、聞いて頂いて終わってここに下がられたと同時に、電話が掛って来た熊本の方から。奥さんからですね。電話がかかって来た。ところがご信者さんが病気で手術をなさった。ところがあんまり出血多量でその病院で、とても難しいという様になってから、今から病院を変えますと。どうぞよろしく、お取次ぎを願って下さいということであった。
 その時に私がまたすぐ、お願いににみえましたから、おかげ頂けますよって。例えばね、私があなたに一生懸命一時間も御理解、お話させて頂いてそれが終わったのと、お宅から電話がかかったのが一緒だった。ちょっとご無礼してから御理解半ばですけれども、と言った様な事でなかった。切りが付いておる。そこへその火急な電話である。しかもあなたがここに見えておられる時に、ここでお取次ぎを願われると言う事。
 そしたら親先生私も電話を受けながら、それを実感致しましたとこう言う。よしよしおかげ頂くぞと言うて、電話を切ったとこう言う事であった。これは常日頃本気で信心の稽古この信心の稽古に、まぁいうなら合楽流の稽古がなされておらんとですね、そういう様な、おかげを受ける一つの機微と申しましょうかね、そういう物に触れましてもね、それをそれとキャッチしきらん。心が散漫であるとかはぁおかげ頂く。
 そう思う心がおかげを頂くのですよ。私が思うたことに富永先生が、目を向けながら思われたことも同じであったとと言う訳なんですね。これはやはり後で、昨日は午後からでしたからちょうど夕方まで、お話頂いて帰りました。それで夕食を一緒にさせて頂きながらの話でございましたけれども。よその先生方が集まって話す時にどういうことを言うかというとこの頃はもう、毎朝のお話の材料がなくなったと。
 なんか良か話の材料はないかと言う話しだそうですね。同じ話ばっかりじゃいかんけんで、なんか話す材料はないかと。まぁ金光様のご信心はこうして、朝晩御祈念をする御祈念をした後には、やはりいわゆる御理解を聞いて頂くというのである。それはもう随分信心も出来ておられ頭も良い。お話も本当に上手な先生方が皆そう言う。あんた達は毎日どげな風にして話よるのと、言う様な話が出ますとこう言うのである。
 そりゃそうだろうと思います。どこに参りましてもね、本当にそういうものを感じますですね。ところで先生私はね、おかげを頂いて朝晩のご理解にお話に事欠くことはありませんとこう言われる。それはね私が合楽の信心を頂いておるから。ほんなら合楽の信心のどこを頂いておるかというと、もう成り行きを大事にすると言う事。ですからこれは不思議なこと、成り行きを大事にさえしていきゃ、成り行きの中に話は何ぼでも出てくる。次に生まれてくるのは体験だ。
 私は昨日の話を聞いてたまがったんですけれども。今度のお家に変わられてからね、大きなムカデをね、50匹捕られたそうです。もうちょいと危ないこと危ないこと。けれども一遍も言うなら、危害に合うたこともない。頭の上に落ちたこともあった。なんか頭のここをバサバサしよったら、頭の上に落ちた。おかげで最近ではそのムカデ退治も段々出来て、もう出らんごとなりましたけれど、まぁ本当に驚くばかりでした。
 そのムカデ一匹一匹のためにですね、お話が出てくる。ムカデが落ちりゃ良かがと思うちから落ちることもなからなければ、ムカデが落ちようと思うて落ちるのでもない。ちょうどそのお話をさせて頂こうかと思いよるところへ、ぱしゃっとおててくる訳です。本当に、あなたが座ってなさる、その横のです落ててそのそんなところからね、お話が出て来るとがある。そのことをだからねずみが出てきても御理解になる。
 ムカデが出てきても御理解になる。成り行きを大事にしていくと言う事は、本当に素晴らしいことだとこう言われる。いわゆるお話を例えば、他の先生がしなければならなのに、お話に事欠くことがないというなら、いわゆるもうお話には心配はないと言う事になりますね。ここでは神徳を受ければ心配はない。お話をさせて頂くということの上においては、もう心配はないとこう。
 お話が上手という訳でもなからなければ、頭の良い特別の勉強学もした訳じゃないけれども、日々成り行きを大事にさして頂いていけば、そこから自分も助かり、人も助かっていくようなお話が出来ると。だから御理解お話に限ってだけは、私よその先生方のように、私は心配は要りませんとこう言う。どうでしょうか皆さんの場合はお話するとが商売じゃないですからね。
 いわばおかげ、私はおかげだけには心配はない。これこれだけには心配はない。そういうこれには心配がいらんと言う様な、私は事柄がいっっぱい自分の心の中に感じられる生活が、神徳を受けた人の姿であるとこう思いますね。そういう私は心配のないおかげを頂くために、ほんならどうあらなければいけないかと言う事です。いわば先日先日じゃない昨日、ある方が今大変金に行き詰まっておられる。
 その方のことをお願いさせて頂いとりましたら、ちょうど御祈念中でしたから、あの一番下のもう左の端に、お菓子のようなのが沢山盛ってございます。一番上に大きな箱が木の箱があるのは、あれは大きな成金饅頭が入っている。大きなこんな大きな成り金饅頭が入っているわけです。あれを頂きますからね、あれはお金のお繰り合わせを頂かにゃんと思ったら、そうではなくてね、『成田山』と頂きました。
 成田山ですね。お不動様がお祭りしてあるところ。そんで私感じましたことですけれども。その方が成田ということは、成りと言う字は成就の成なんですね。田は田んぼの田が書いてある。さんは山である。だからおかげの受け場。これが成田というからさんというのは山である。本当のおかげの頂かれなさるための、いうならば修行が今その人の上にあっておることである。例えその方に似ております、それはもう小さい金じゃないですからね、今日は三百万円、明日は五百万円ちゅうごたるふうな金。
 ちょうど昨日、もうお届けされる時に、月末までに九百何十万。一人昨日は二十七日でしたね。二十七日の下に親教会の三井教会というお届けがしてある、その二十三の字と三井教会の三の字と、七日の七の字を頂きます、併せて十になるでしょうが。だから一千万あればいいわけですねち言うたら。一千万あればいいわけですと言う月末までに。というようなです大変な金額であり、しかも火急なんである。だから神様3と7と教えて下さったから、はぁ一千万円要るというわけなんです。
 だからその方がですいうならば、おかげを受けていかれるためにはね、神様が楽々とはくださらん。例えば濡れ手で粟の掴み取りの様な事ではない。それはもう必要なら必要なだけ、それこそ押しやり蹴やりで、日々が開けておると。もう一日を走り回ってしかも、もう先月なんかは相当なまとまった金額でしたが、もうそれをちょっとある人に話したところが、あそりゃ僕が出してあげましょうち言う人があった。そんでまぁそのために行ったり来たりして一日かかった。結局は出来じゃった。
 もうがっかりしてしもうてから、ところがそのもう一軒のところまで行きよると、いよいよ最後になってですね、もう夕方遅うご飯頂いとりましたら、見えましたもん。今日はもう朝から晩まで、その貸してやるち言う奴がおるもんだけん、簡単に言うもんだからそれに引きづり回されてから、いよいよ出来んとこじゃったが、一番最後に思いもかけないようなところで出来て、もおう今日のごと嬉しかったことはなかった、と言うて二度目のお参りをされました。と言うように本当に神様は楽々とは下さらん。
 けれどもですね、日々お取次ぎ頂いてお願いはする、真剣に願っていくところにです、神様ちゃ、間違いのないお方であるなという心は、いよいよ心根に出来て来た。成田山というところには、不動様が奉ってある、不動さん。自分のいうならば不動の心。信心さして頂いてですね、私は有り難いと言う事は、段々神様の間違いなさが分からせて頂いて、当てもないのに絶対間違いないなんて言うのとは違う。
 よく不動の信念なんて言う事を申す人がありますけれどもね。信心を抜きにしてね、不動の信念なんて、もうこりゃ当てにはならないです。勉強のある人は良く申します。けれども信心でいう、いわゆる不動の信念というのは、そういうものではない。日々神様の、それこそ、押しやり蹴やりの中にあってもです、全てのことに神様の働きの間違いなさを、実感させて頂くところの生活が積み上げられて行く所から、生まれてくるものが、不動の心であります。どんな場合でも動じない。
 ですからね、いかにその、日々の神様の間違いなさを体験させて頂くためには、日々です、私共が所謂成り行きを大事にしていかなければならないかと言う事が分ります。富永先生はそこんところの、成り行きを合楽の信心であるところも、他んところは分かりませんけれども、親先生がおっしゃる、成り行きを大切にしていけと仰る。その成り行きを大切にさせて頂いておれば、よその先生方が、毎日のお話しに事欠く困ると言われるが、私は、お話をさせて頂くということだけには困りません。
 もうちゃんと成り行きの中に、神様がお話しの筋道というか、お膳立てはしてござる、何時もして下さってあるのに、有難いと思います。だからこの事だけには心配はないという事になってきた。今私がお取次させて頂いて、その成金饅頭のお知らせを頂いた、その方の場合はですこりゃ難しい事じゃあるけれども、神様に一心に頼み一心に成り行きを大事にしていく生き方、そういう生活をさせてさえ頂いておればです。
 この様に間違いがない。そりゃいくらそれは困った事に直面してもです、もう私は金の事だけには、いくら無かったって心配はせん。神様がおかげ下さるという確信の持てれる、おかげを頂いていかれたら、どんなに素晴らしいことだろうかとこう思う。それが三回、五回じゃ出来んでないと、はぁありゃふが良かったっちゃろう、あら偶然じゃろうといったような心が動いてくる。そういう例えば心の日々積み重ねが出来て行く所に、いわゆる、不動の心が生まれてまいります。
 してみるとですね、いわゆる成田山であって、神様はどうでも私どもに、成田山というところを、通らせなされなければならないことに、私ども心配せんですむおかげを頂きたい、神徳を受けたいと、願わせて頂くならばです、ほんならそういうおかげを頂くためには、私どもは過程として成田山の信心というのが必要になってくる。おかげを頂くための、おかげが成就することのための、受け物を作る修行が必要。
 成田山とはそういう意味なんですよ。ですからそのこと自体が実は尊いのです。そのあとにです、私はねそれこそその日暮らし的な、いわば在り方その日その日が、押しやり蹴やりじゃなくてです、ゆとりのあるいわゆる成金饅頭的なおかげになってくるとこう思います。だからただ成金だけを願っちゃならん。成金のおかげを頂かして頂く為の、その過程に成田山があるということ。そしてそこには不動さんがあること。お不動様が自分の心中にお不動様が宿らっしゃる。
 これはもう十四、五年も前だったでしょうか。福岡のお祭りの時に、遅うに私と秋永先生と、久留米の三橋先生と三人で、西鉄の電車を利用して帰ろうと、時間が随分あるもんですから、ぶらぶらあの辺の中州のじゃない新天町。あの今と全然違う時代ですよね。ぶらぶら歩きよったらそこの黒い、黒隅ののところにその小さい提灯を立ててね、易者が見ておられる。まぁ冷やかし半分でいっちょ、手相なっと見てもらうのち言うちから、時間があるもんですから。
 それから、私と秋永先生と三橋先生とですね、見てもろうた。そしたらこう開いては私の顔を見こう開いては私の顔を見てですね。もうあなたはどうん言う事いらんけん、この本ば読んで下さいち言うちから、こげん厚か本ば出しなさるけん、私は本ば読まなんごたるなら、手相見てもらわんで良かじゃないですかち言うたらね。もうあなたは言う事がありませんち。あなたの家には天地の中。
 いわゆる八百万の神々様が働いとられますなち言われました。私だんこう見よると、顔見合わせましてね、本当にビックリしました。天地の親神様ですからやっぱ天地の八百万の神様を集めた神様ですからね、いうならば。そしてあなたはあの不動様の信心をなさいますなとこう仰る。だからそんなら私「はい」ち答えた。実は不動様を拝んだこともないですけれども、私の心の中に宿ってござる不動様なのです。
 それから秋永先生が見てもらった。秋永先生がその時分に辿っておられた事を、本当にそのまま言われましたですね、手相見る人に。それから三橋先生の場合なんかもそうでした。あなたはもうあなたはね、大変ないうなら分限者の長男として生まれて、財産は今も久留米の町の真ん中に、あれだけ大きな屋敷と、家を持っておられるぐらいですけどもね。あなたはね橋の下にでも居られんごたる運命だち言いましたよ。
 それであなたこのお方のごたる、その人が友達に居りなさるけん、この方の言われる通りにすれば道が開けますち言うた。その時に三橋先生が私が言う事を、どうしても聞かん事があったんです信心の上に。ほら易者の人もやっぱあげん言いよったじゃないかと、三橋先生に言うた事がありましたけれども、まぁそれはそれとしてですね。いわゆる私どもは、信心させて頂いとって、私の心の中に不動さんが宿られるわけです。
 いわゆる不動のもの。不動の信心。富永先生が日々、御理解を説かせて頂くことだけには、不自由をいたしません、心配をいたしません。それは日々成り行きを大事にさせて頂くということの中から、お話しが生まれてまいりますと。これだけには心配がないと言うておる。日々、金銭のお繰り合わせを願うて、その日その日のことではあってもです、何とはなしに、押しやり蹴やりに、その道が開けておる。
 だからそれがいよいよ積み重ねられていく時に、いよいよ成り行きを大切にさせて頂いて、一心にお縋りさえしていけば必ず道は開けるという、確信が日々生れて来る。いわゆる成金のおかげを、成金饅頭のおかげを頂く前提として、いわゆる成田山が必要である。おかげが成就する、おかげを受けるおかげの受け物が必要ですから、おかげを受けることのための修行が山というのは修行ということ。その修行必要である。
 そこにいわゆる、成金饅頭的なおかげが頂けれる。いわゆるお金のことだけには心配はせんということになってくる。いわゆるお金の徳を受けたわけです。徳のない間は心配をする。神徳を受ければ心配はない。私どものいう心配のない生活。というのは我情我欲を離れて、とこう仰る様にわが身は神徳の中に生かされてある。わが身は神徳の中に生かされてある。神様のおかげで、と言う事になってこにゃいかん。
 これもやはり昨日、富永先生の話でしたけれど、まぁこりゃ深刻な話なんです。ああして布教所から教会になられた。おかげを頂いてから本当に一番繁華街のすぐ近くに、そりゃ実に閑静。繁華街にありながらその閑静で、もう教会のために作ったといった様な家が、融資のおかげを頂かれてそちらに移られるのと、教会の認可を頂いたのとが同じというようなおかげを頂かれた。
 それからというものは毎日、五、六人ずつの求心者があったというずうっと。それから毎日多額のお供えをする人が出て参りましたり。もう本当にそれは只々驚くばかりである。そういうおかげが現れているところがです、昨日の様に最近先生その求信者が、ぱったり止まってしまったと言うております。皆さんおかげを頂いてですね、一つ成田山が出来る、成田山の修行が出来たごたる。
 そこで神様がははぁこのままでいくなら、愈々成金になるぞと言ったような、おかげのしるしを、神様がある時期に必ず見せて下さいます。だからそこん所を大事にしなければいけんのですけれども。はぁ自分もだいぶん力が出来てきたなぁという事になるのですよ。私が言うことなら、神様はどげなこっでん聞いて下さるなぁと言った様に、神様を甘く見たり自分というものの、所謂自惚れが生まれてまいります。
 これを慢心という。成田山。そういう成田山という、そういうおかげを頂くための修行が本気で出来ます。出来ますとですね、さぁこれから本気で神様がおかげをやるぞと仰るような働きが必ず始ります。それはとても、毎日毎日教会に五、六人の新しい求心者が集まってくるというですから大変なごひれいですよね。所がです嘘のようにすきっと、そこに信者がなくなってしまった。新しい信者がが参って来ん様になった。
 どういうことでしょうかと。今年に入ってそうだから考えてみるけれども分らん。けれども私が申しました。富永先生誰でも人間がね、それこそ自惚れとかしゃくのないものはなかて言われるぐらいですから、誰でっちゃやっぱちぃっとですね、お供えがどんどんあるとか、信者が少し集まって来ると言うと、もう俺も一人前の先生になったごたる気がするもんですよと。
 やはり自分にはないごたるけれども、そういう自分の内容というものを、よく見てみると、そういう事になっておる。だからそこを詫びて次のチャンスを願いなさいと。ただ今度頂いた時には、絶対のものを頂かせて貰えれるだけの態勢、所謂新たな成田山を目指せと言う訳なんです。先生そう言われる通りそうでございますと、言うておられましたがね。私どもがほんなら今日の様に『徳のない間は心配する、徳を受ければ心配はない』と仰せられる、その徳を受けるというまでにはそういう過程があるのです。
 今まで一生懸命修行をした、だから神様がおかげの印を、どんどん見せだしなさる。そうすっとそこで腰掛けたり慢心が出たりする。それでまたすぱっとおかげを落してしまうような結果になる。しかしこれも尊い体験だ。だから今度はまたそのチャンスは、いつあるか分からんけれども、そのチャンスを願わして頂いての、また修行に入らして貰うて、今度頂くチャンスは逃しちゃならん。
 ここで今度は失敗をしてはならんという、一つ信心を頂いて、そこから確固たるいわゆる不動のものが頂けるようなおかげを頂かなければいけません。と言うてお話をしたことです。そこでです。どう言う事にならなければならないかというとね、今日私ご神前で頂きましたことはね、『お礼が足りんというが、喜びが足りんのじゃ』と言う事を頂いた。皆さんがよう言う事ですよね。
 もうちょっと病気をしても、日頃のお礼が足らんとですもんねと、健康の時のお礼が足りんとですもんねと、言うけれども。そのお礼が足りないと言う事はね、喜びが足りないということなんです。ここのところの信心がね、出来てまいりませんといよいよおかげを頂きだしてから失敗をいたします。
  (途中音声が悪い )
心配要らんものが、沢山出来て来る。いうなば、金の徳、物の徳、やはり物の徳、衣食住と言う身の徳。そういう、例えば、徳がね、それぞれに、あちらは、着物なら着物を言うておりますね。見の徳だけは受けてある。
   (音声悪い)
そこで初めて、わが身は神徳の中に生かされてあるという喜びが感じられると、教祖は仰られる様に、確かに、そうである。その喜びがです、お礼になって現れて来ると言う信心。お礼が足りん、お礼が足りんと言うてね、言うとったって駄目。お礼が足りんと言う事は、喜びが足りん事じゃ。
   (音性悪い)
 そういう修行を経てです、私共が、これが神徳と言うのであろうかと、思われ、あれにも心配がない、これにも、心配がない、・・・神徳を受けて行っておる人の姿と言う事が、言えるんじゃないでしょうか。
  (以下音声悪く聞き取れない)